密の鰺 第四章 ミス日本と異母姉妹
彼と付き合い始めて暫くして、生活のベースを東京に移すことにしたの。東京はパパに小さいころから連れてかれてたから馴染みもあったし。ちょうど趣味でモデルをやってたから、仕事で東京に来る度に貯めたお金を少しずつ運んで。
彼から多額のお金を貰ったはいいけど、果たしてこれをどう処理すればいいのかしら?このまま放っておいてヤバい目にあったら堪らないわ。色々考えて、お金を表に出せるような方法を見つけた方がいいと思い付いたの。だって「なんでそんなに金あるの?」って誰かに聞かれた時「彼が金持ちなの。」って言っても説得力ないでしょ。まして彼とはもう別れちゃったんだし。そういう事を聞かれるのがうざいからって今さら地味な生活はイヤだし。問題はこれを一人で目減りさせずに使う方法があるかってとこ。んで、会社でもやってみるかってことになったの。
会社であれば収益をあげてる限り、私がなんでお金を持ってるかのエクスキューズに使えるし、パパの倒産のおかげで色々とノウハウは分かってたから簡単だと思ったの。それで取りあえず興味のあるところで、私の芸能活動用の個人事務所を立ち上げてみたの。まあ、モデル時代にも11PMのカバーガールや着物ショー、CMの仕事をしてたから、一応芸名とか付けてグラビアとか出てみたの。オーディションや撮影も結構好きだったし、仕事も順調に増えて大手の事務所からお誘い受けるぐらいまでいったのよ。でも反面「オレと寝たら仕事やる」みたいな世界もあって、そーゆーのにいい加減愛想が尽きちゃったのよ。で、さっさと事務所は解散。
次に立ち上げたのは宝石、貴金属、時計の並行輸入会社。システムは友の会形式で、私が良いかなって思う物を買い付ける度に会員を募集するって感じ。私としては社員の給料分ぐらいペイできれば儲ける必要もなかったから、これでいいと思ったのね。でもパパの血というかなぁ、なんか私の目を付けるもが次々面白いようにヒットしちゃって。後には年商10億を超えちゃったから、税金対策も考えて卸し問屋部門と友の会の個人輸入部門に分けちゃった。
会社は赤坂にあったし商社との取引きもあったから、政財界の交流会にも出るようになったの。私はこーゆーお偉方からビジネスのコツみたいなのを学びたかったんだけど、向こうは私が融資先を探していると思い込んでる事もあって。当時はバブル期の入り口で、私のところにも毎日のように銀行から融資話があったというのにね。私は当時から「銀行だって倒産するかもよ。」ってマジに言ってたけどバカにする人ばっかだった。
まあ、会社を作ったホントの理由は言えないし、そういう意味では上手く立ち回りながら着実に人脈を広げていったの。留守がちにする会社の方は、大阪のブロックの彼に任せてたわ。彼が設立当初から幹部として手伝ってくれたのはラッキーだった。なんせ彼は単なるイエスマンとは違って、私の希望を忠実に実行してくれる。私の望みを叶えるのが自分の役割だと心得ているから。
会社に時々くる私目当ての男なんかも、ブロックの彼は上手く追っ払ってくれるの。私にしても彼の行動パターンはよく分かっているしね、安心よ。
彼も東京での生活が落ち着いてくると、女ができたみたい。そーゆー話をよくするようになるんだけど、私が平然と聞いてるんで「なんで嫉妬しない!」なんて駄々こねたり、こっちが新しい彼の話すると怒ったり。相変わらず子供よね。でも彼のおかげで人脈作りやマーケットリサーチ、エステに行く時間も作れて助かったわ。
ミス日本に出たのはこの会社を作ってからすぐ。世界的に権威のあるのは「ミス・ユニバース」「ミス・インターナショナル」「ミス・ワールド」「ミス・アジアンパシフィック」なんだけど、「ミス日本コンテスト」はこーゆーのとは違うの。戦後間もない草創期は、国際親善の目的で選ばれてたから政財界とも強い繋がりが有ったんだけど、昭和60年代に和田研究所の和田静郎が再開してからはもっぱら和田研究所のコンテストになってたの。ミス日本には本選に残った人が貰える「ミス日本」とその中から選ばれる「ミス日本グランプリ」、それ以外に次点として「ミス・ビューティーエリート」っていうのがあって、私が貰ったのはビューティーエリート。
ところが本選が終わってから、審査委員長の和田静郎や他の審査員に呼ばれて「見直し当選でミス日本にする」って言われたの。嬉しいけどなんか変な成りゆきよね。週刊朝日にも書いてあったけど、和田研究所のミス日本ってグランプリこそ一人だけどあとのミスは何十人もいるのよ。結局和田さんの一存でどうとでも出来るのね。普通のミスコンとはちょっと違うの。
ある日、私は和田さんに呼ばれて「審査員をやってみない?ミス日本出身者では最年少審査員になるよ。」って誘われたの。面白そうだったから勿論引き受けたわ。何回か審査員をやってるうちに和田さんの長男の浩太郎さんとも親しくなって、色んなパーティに連れていってもらうようになったの。ビジネスの話で意気投合したのもあったし、彼は常に時代の新しい流れに目を向けてるところがいいと思った。また父親がワンマンでやってるコンテストのあり方にかなり危機感を持ってるところら辺も共感したわ。
浩太郎さんはホテルニューオータニの中に政財界人向けのアッパーサロンを作る構想を持って、私もこの計画には投資という形で一枚噛むことにしたの。それで一緒に賛同者を募るために動いてたんだけどね.....。ある夏の日、それぞれ仕事をこなしてから、賛同者集めのため一緒にJALで大阪に向かう事になってた。私の方は商談が長引いちゃって、結局浩太郎さんは一人でその飛行機に乗り込んだの。それがあの123便だったなんて.....。
彼が亡くなってからアッパーサロン構想も立ち消えになっちゃったけど、この遺志は私が引き継ぎたいと思ったわ。
そんなある年、「ミス日本グランプリ」になった子が私の異母姉妹だって言ってきたの。それが美香。どうやら母親からそうだと聞いたみたい。さすがに唐突だったんで驚いたけど、まあ、あのパパのことだからあり得るわよね。言われてみりゃ、美香にはなんか同じ血を感じてたの。運命って不思議よね。
私と美香が最後にコンテスト事務局と関わったのは4年前。和田静郎が倒れて、次男の薫さんが奥さんと切り盛りするようになったころかしら。まあ薫さんはもっぱら「ルーレット研究会」に御執心で、コンテストの運営なんてロクに携わってなかったけど。
ある日二人が私のところにコンテスト興行権を買わないか?って来たのよ。値段は億単位。そんなの興味ないから断ったら、今度は金を貸してくれって。当時はバブル崩壊で苦しかったんでしょうねぇ。私も断ったんだけど、そーゆー経緯は向こうも表沙汰にしたくないのかしらね?審査員をやってたこともおろか、「繰り上げ当選」のことも認めたくないみたいね。大体毎年出るパンフレットを見たって写真にある受賞者の人数とデータ表の人数が合わないなんてざらにあったのに。
まあ、とにかく週刊文春で事務局が私がミス日本じゃないって言ってるのを見た時は驚いたわ。でもそもそも私の人生でミス日本は通過点にしか過ぎないし、なったから「なった」と言ってるだけ。はっきり言って私には些細な事なのに世間ではそーじゃなかったみたいね。
モニカ・ルインスキーの事件ではホントにホワイトハウスでそんなことをやったのか?というのとクリントンがやったのにやってないとウソをついたのか?という2点の問題があったわね。で、アメリカ人は後者を問題にする人が圧倒的多数だったじゃない。
要するにやったやらないじゃなくて、ウソをついたかどうか。
私の一件なんて全然スケール小さいけど、この経歴問題、一体みんなはどっちに興味があったのかしら?
第4章終わり